井上達夫です。昨年、長崎の原爆記念日の招待国問題をきっかけにして、原爆言説の欺瞞を批判する三つの私信を友人たちにお送りしました。今回のニュースレターでは、第2信を再提示いたします(「第1信 長崎市「原爆の日」招待国問題」はこちらからご覧になれます)。
目次
- 第2信 日本の「核兵器反対大義」の歪み(2024年8月13日発信)
「核兵器先制不使用宣言」は日本の反対で断念
「三個目の原爆が落ちるとしたら、どの国に落ちると思う?」
核保有国の駐日大使に要請すべきこと
第2信 日本の「核兵器反対大義」の歪み(2024年8月13日発信)
「核兵器先制不使用宣言」は日本の反対で断念
先日お送りした長崎原爆式典招待国問題に関する小生のメールに対し、こういう見方があったのかと驚くとともに共鳴するレスポンスをいくつか頂戴しました。
メディアやネットでのこの問題に関する報道・発言を見ても、日本の「核兵器反対大義」の歪みという本質的問題に触れる言説がほとんど見当たらないので、若干補足をさせていただきます。
長崎原爆式典の騒動の根底には、日本に二つの原爆を落とした米国に対し公式に批判しないどころか、日米安保の下で、米国の軍事的属国になり、その核の傘に守ってもらいながら(正確に言えば、守られていると信じながら)、核兵器反対を唱える戦後日本の甘えと欺瞞があります。
2016年にオバマ大統領を広島に招いた時、彼は被爆者を前にしたスピーチで、原爆投下を謝罪するどころか、「8月6日、死が天から降ってきた」と他人事のように言いました。
日本では、そんなオバマを批判する声よりも、現職米国大統領として広島をはじめて訪問した彼を賞賛する声の方が大きかった。
そのオバマですら、2016年に核兵器先制不使用宣言をしようとしたのに、それに反対したのが日本政府です。
米国に核兵器を先制的に使用しないと言われると、日本に対する米国の「核の傘のお守り」の効能が薄れると心配したからです。
オバマは日本政府の要請に応じて、核兵器先制不使用宣言を止めました。

オバマは核軍縮公約で、2009年にノーベル平和賞を受賞していました。
しかし、米国の保有する核兵器のうち経年劣化したものや技術的に陳腐化したものを処分して核兵器保有総数を減らしたものの、保有核兵器を更新して質的に向上させ、核武装を実質的に強化したことが後に分かり、「ノーベル賞を返せ」というようなオバマ批判も高まりました。
そこで、彼としては、「核軍縮に努力しています」というポーズを示すために、広島訪問や核兵器先制不使用宣言検討をしたのだと思います。
広島訪問の偽善性については既に触れましたが、「核兵器先制不使用宣言」についても、どこまで本気でやる気があったのか不明です。
先制不使用宣言で自分の手を予め縛ってしまうのは、米国の戦略的利害にとって必ずしもプラスではなく、オバマ政権内部の安全保障関係者の間でも反対論は当然あったでしょう。
日本政府が「困るからやめてくれ」と言ってくるのを予め見越して、「核兵器先制不使用宣言を検討したが、日本が反対したからやめた」という形にして、格好付けの点数稼ぎだけしようとしたのかもしれません。
上記の推測はあくまで「勘ぐり」で、固執しません。
いずれにせよ、「核兵器先制不使用宣言」への日本の反対は、核兵器廃絶条約への日本の反対以上に、日本の「反核兵器大義」の欺瞞性を露呈するものでした。
「三個目の原爆が落ちるとしたら、どの国に落ちると思う?」
先のメールで、エマニュエル駐日米国大使が、イスラエルを招待しないなら米国も式典に出席しないと言い、英仏の様な核保有国もそれに便乗したことに対し、「核軍縮の大義を地政学的抗争の具にすべきでない、ロシアもイスラエルも含めて核保有国・核配備国をこそ招待すべきだ」という観点から批判した上で、 米国の態度の偽善性にも触れましたが、こういう偽善性を米国に許しているのは、日本自体の欺瞞性と甘えであるということを自覚する必要があります。
日本はその反核大義の嘘臭さを米国や他の諸国にも見透かされているのです。
森有礼の孫で、フランスで没した哲学者、森有正が伝えたというエピソードがあります(加藤典洋による)。
森が友人のフランス女性と会話していたとき、彼は彼女に、「三個目の原爆が落ちるとしたら、どの国に落ちると思う?」と訊いた。
彼女は「それは決まっているじゃない、日本よ。だって二度も原爆落とされたのに本気で怒らないんだから」と答えたそう。
「ゴジラ -0.1」で影が薄くなりましたが、2016年の庵野秀明監督の「シン・ゴジラ」は、特撮技術は劣るとはいえ、政治的には面白い作品です。
日本で暴れるゴジラが他国を襲わないよう、日本に原爆投下してゴジラを殺そうという動きが国際社会で強まるという筋立てになっています(最終的にはゴジラ凍結で解決)。
東大ロースクールの映画研究会顧問をやっていたので、この映画を一般市民も参加する「本郷映画祭」で取り上げました。
上映後のパネルディスカッションで、「三個目の原爆も日本に落ちる可能性」は、日本の反核大義の歪みに関わる重大な問題を提起していると私は言いましたが、聴衆にはピンとこなかったようです。
いずれにせよ、今回の長崎原爆式典問題は、日本の「核兵器反対の大義」を甘えや欺瞞を排して貫徹するにはどうすればいいかを日本人が根本的に考え直すきっかけになってほしいと願っています。
残念ながら、今回の騒動から、本質的問題に突き進もうそとする動きはあまり見えません。
少なくとも、毎年、8月6日と9日に繰り返される形骸化した原爆慰霊式典の在り方を再検討するきっかけにはしてほしいですね。
核保有国の駐日大使に要請すべきこと
私の大学同期の友人で外務省に行き、オランダ大使も務めた者がいます。
彼から聞いた話ですが、駐蘭日本大使として最も心理的につらかった務めは、旧日本軍により強制的に従軍慰安婦にされたオランダ人女性の生存者と定期的に面会して、彼女たちの声に耳を傾けることだったそうです(日本政府はオランダ人慰安婦については日本軍の強制的関与を認めています)。
被爆者で生存している人は数少なくなりましたが、生存被爆者や被爆二世の人たちとの定期的面談を、何よりも駐日米国大使、さらには核保有国の駐日大使たちに要請するというのは、広島市や長崎市だけでなく、日本政府自体が、核廃絶への道を本気で歩もうとするなら、すべきことでしょう。
以上、長い追伸になりましたが、日本人恒例の「八月の反省」を空疎な儀礼以上のものにするための補足でした。
まとめ・次回予告
昨年8月13日、日本の「核兵器反対大義」の歪みに関して述べていたコメントでした。次回は、「米国の「原爆正史」の呪縛力」というテーマでお伝えします。
