本年に入ってから、ヴェネズエラ侵攻論、イラン侵攻論と、深刻な戦争の問題をめぐる記事の配信が続き、読者も息苦しくなってきたかもしれません。イラン侵攻論は戦争が続いている以上、続けないわけにはいきませんが、息継ぎをするために、久々に「コーヒー・ブレーク」の記事をお届けします。

話題は、巨人軍監督だった阿部慎之助氏が長女への「暴行」を理由に逮捕され、監督を辞任した事件です。大きな戦争の話から、「家族の中のもめごと」という「小さな争い」の話に一旦逸れますが、この事件、法哲学の観点からも、瑣末とは言えない重要な問題を孕んでいます。 *今回、途中から有料記事です。


目次

  • 事件の経緯
  • 悪者探しの問題性――AI、児童相談所、警察の対応の評価
     AIの回答が悪い?
     児童相談所の過剰反応?
     警察の対応が不適切だった?
     本当の問題は何か
  • 警察に逮捕されることは恥ずべき罪ではない――阿部氏の監督辞任こそ不要・不当な過剰反応である
  • 逮捕を社会的有罪宣告とみなす日本人の未熟な法意識が警察を暴走させる

事件の経緯

まず、阿部氏による記者会見や報道で伝えられた本事件の事実を確認しておきます。

5月25日に、阿部氏の二人の娘、18歳の長女と15歳の次女が自宅で喧嘩し、在宅していた阿部氏が「静かにしなさい」と注意したところ、長女が言い返したため、かっとなった阿部氏が長女の胸ぐらを掴んで押し倒した。阿部氏は飲酒しており酔っていたという。記者会見で代読された長女の手紙によると、「殴る蹴る」のような激しい暴力はなく、怪我もしなかった。

しかし、父とのこのような大喧嘩は初めてで、ショックを受けた長女はChatGPTに相談した結果、匿名で相談できる児童相談所があると知らされ、「どのようにすればわからない」と児童相談所の職員に相談したところ、職員は長女の意向を聞くことなく、警察に通報し、自宅にかけつけた警官が阿部氏を暴行罪容疑で現行犯逮捕した。その数時間後、阿部氏は釈放された。

翌日26日朝に阿部氏は監督辞任を決断し、謝罪記者会見を行った。長女の手紙はその場で代理人に代読されたが、この手紙では、長女は自らの意思でこれを書いたとし、父の逮捕にまで至った事態の展開は自分の望むところでも予期したことでもなく、最も衝撃を受けているのは自分であるとし、父とは仲直りしているので、阿部氏とその家族への誹謗中傷は自制してほしいと要請している。

悪者探しの問題性――AI、児童相談所、警察の対応の評価

どの家庭にもよくある親子喧嘩が親の逮捕にまで発展して、親がその職位からの辞任に追い込まれ、しかも、子がAIに対処方法を質問しその回答に従って児童相談所に相談したことがきっかけになっているというこの事件、「異様だけど、誰の身にも起こり得る現代的現象」として大きな社会的関心を集めています。

児童相談所に相談した長女自身が父の逮捕や辞任につながるこのような展開を望んでいなかったことを手紙で訴えたということもあって、事件展開の責任をめぐり、AIの回答が不十分だったとか、児童相談所が長女の意向を聞かずに警察に通報したのが悪いとか、警察が阿部氏を現行犯逮捕したのが過剰反応で違法性の疑いもあるとか、色々論じられていますが、私見によればどれも本当の問題に届いていない。

AIの回答が悪い?

AIは質問に答えるだけですから、対処法を問う長女の質問に、親から暴行を受けたと思う子は児童相談所が匿名で相談に乗ってくれるという回答をしたこと自体は間違っていない。この回答を超えて、児童相談所が親の暴力から子を保護するために必要とあれば当事者の意向とは関係なく警察と協力して強制的に調査したり子を保護収容したりする権限と責務を児童福祉法や児童虐待防止法によって負っていることまでは答えなかったとしても、それはそこまで踏み込んでAIに追加の質問をしなかった利用者の側の問題であって、AIが悪いとは言えないでしょう。

法律上保護対象たる児童とは18歳未満で、本件の長女は18歳ですから、厳密には対象児童に含まれません。長女が自分の年齢を明示したにも拘らずAIが児童相談所に相談できると回答していたとしたら、これは不正確な回答になります。ただ、これは考えにくく、おそらく正確な年齢を示さずに親から物理的威迫を受けた子として相談したのだと思います。仮にこの点で不正確な回答をAIがしていたとしても、長女の年齢と状況を確認しどのような対処をするかはAIではなく、相談を受けた児童相談所が判断すべきことで、AIに帰責して済ませる問題ではありません。児童相談所としては、18歳でも親元で扶養されて暮らす高校生という長女の立場を考えて、保護措置が必要と判断し、警察に通報したと考えられます。

児童相談所の過剰反応?

児童相談所の警察通報が法の要請を超えた過剰反応だったとも言えません。法律論的に言えば、大人同士の事件も含めて違法行為を知ったら警察・検察に通報・告発するのは刑事訴訟法により、公務員一般に課された法的義務で、児童相談所職員は阿部氏が暴行したと思われる場合は、相談者たる長女が児童相談所による児童保護の対象たる児童に該当するか否かとは関係なく通報義務を負います。児童相談所職員はこの公務員としての一般的通報義務を果たす必要と、相談者たる長女が18歳とはいえまだ親元で暮らす高校生として児童に準じた保護が必要という実質判断とから警察に通報したと思われます。

親による子の虐待に対する児童相談所の強制的介入が遅すぎて親による子の殺傷を防止できなかった事例がこれまで多発し、これに対し、DVからの子の保護のための毅然たる介入を児童相談所に求める世論も強まってきています。本件における児童相談所の警察通報は法的にも実質的にも、非難されるべきではないでしょう。

警察の対応が不適切だった?

警察の現行犯逮捕についてはその合法性・必要性を疑う声もありますが、これも的外れです。ここでは詳述できませんが、犯行の明白性・犯人の明白性・証拠隠滅の恐れなど現行犯逮捕を正当化する条件は本件では成立していたようです。逮捕翌日に開かれた阿部氏の謝罪記者会見での声明と、そこで代読された長女の手紙から得られた「後知恵」を基に逮捕の必要性はなかったと主張するのも不適切です。

逮捕時点で、まだ阿部氏は酩酊状態から抜けきっていなかっただけでなく、普段の家族関係が翌日の記者会見で示された長女の手紙が描くように基本的に良好と見ていいのかどうか、阿部氏が家族に対し暴力的・威圧的に振る舞ってはいなかったのかどうか、警察としてはその場ですぐ判断できず、警察が去った後で阿部氏がまた暴力をふるったり、長女や他の家族を威圧して「口裏合わせ」をさせたりする可能性も直ちに否定することはできなかったわけで、ここでは警察としては逮捕して、拘束を続ける必要性の有無について事情を確認し、必要性なしと判断できたから釈放するという方針をとったことは不適切とは言えません。

逮捕後数時間で釈放したのだから「任意同行」でよかったという批判もありますが、これも結果論で、任意同行は本人が一旦応じても、いつでも拒否・退去できるので、警察としては必要な事情聴取をするのに十分とは言えません(注1)。

(注1)日本では、欧米と異なり、起訴前の被疑者の事情聴取への弁護士立ち合いを認めておらず、これが冤罪を生む一因になっているという問題はもちろんありますが、これは日本の刑事訴訟手続一般の欠陥に関わり、本件における逮捕の是非とは別問題です。

本当の問題は何か

では一体、今回のような「阿部家の不幸な事件」が起こってしまった原因は何だったのでしょうか。それは「不幸の原因」ではなく「不幸な結果」と思われている阿部氏の巨人軍監督辞任そのものです。阿部事件を不幸な事件にしているのは、阿部氏が逮捕翌日に巨人軍監督辞任という自身とその家族だけでなく、球界と社会全体に大きな衝撃を与える「自己処罰」を行ったことですが、私見によれば本件における逮捕を理由にした辞任は不要かつ不当です。このような自己処罰に阿部氏が追い込まれたのは、警察により逮捕されたこと自体を恥ずべき罪とみなす未熟な法意識が日本社会にいまだ根強く浸透しているからであり、この点に、阿部事件が提起している本当の問題があります。以下、この点を説明します。