ウクライナ侵攻の原因をめぐり、「NATOの東方拡大がロシアを追い詰めた」という説が一時期広まりました。しかし、歴史的事実を検証すれば、最初に軍事攻撃を仕掛けたのはロシアであり、NATO諸国はむしろ自制的な対応を続けてきました。プーチンの真の狙いは何なのか。第1回「「NATOの東方拡大がプーチンを追い詰めた」という見方の誤り」に続く第2回。
目次
- プーチンによる軍事介入の開始
- プーチンの狙い―「非軍事化」要求の意味
- NATO東進帰責論の破綻
プーチンによる軍事介入の開始
エリツィン大統領時代の末期、プーチンは首相として実権を握り始めていましたが、エリツィンの辞任後、2000年にプーチンは正式に大統領に就任しました。その一期目までは、前回述べたような、脱冷戦期における西側諸国・NATOとロシアとの関係緊密化・融合の動きが基本的に続いていました。ところが、こうした流れが大きく変わった原因は、まさにプーチンの行動にあったのです。
一つの契機として、ジョージア(旧グルジア)とウクライナで、親欧米的な政権を樹立して、民主化を進めようとする動きが現れたことがあります。
2003年にジョージアでバラ革命(注1)、2004年にウクライナでオレンジ革命(注2)と呼ばれる民主化運動が起こり、両国ではEUやNATO(北大西洋条約機構)への加盟を目指す動きも出てきたのです。
(注1)バラ革命…2003年にジョージアで起きた無血の民主化革命。議会選挙での不正疑惑に抗議する市民がバラの花を持って集結し、旧ソ連時代から続いていたシェワルナゼ大統領を辞任に追い込んだ。その後、改革派のサアカシュヴィリが大統領に就任。旧ソ連圏の「カラー革命」の先駆けとなり、民主化と西側志向への転換を象徴する出来事となった。
(注2)オレンジ革命…2004年にウクライナで起きた民主化運動。大統領選挙で親ロシア派のヤヌコーヴィチ候補の不正疑惑に抗議し、親欧米派のユシチェンコ支持者がオレンジ色を身につけて、首都キエフで大規模デモを展開。最高裁が選挙無効を判断し、再選挙でユシチェンコが勝利、平和的な政権交代を実現した。
このような民主化推進の動きはロシア国内にも影響を与えました。プーチンは二期目の大統領選も勝って、2008年まで政権が確保できましたが、当時のロシア憲法では、大統領任期は二期に限られており、その後も権力を保持する手段を彼は画策していました(2008年から2012年の間、メドヴェージェフを中継ぎの名目大統領にして自らは首相として実権を握り、その後また大統領に返り咲くという「脱憲法」的奇策をとったのは周知の通りです)。
しかし、ロシア国内でも民主化運動が昂揚すると、プーチンの権力恒久化が反発を招くことは必至です。プーチンは、ロシア国内の民主化運動を促進するジョージアやウクライナの民主化推進の動向を強く警戒し、両国の親ロシア派勢力を利用して、西側接近の動きを阻止しようとしました。
ここで重要なのは、軍事的な攻撃を最初に仕掛けたのは、西側諸国やNATOではなく、ロシアのプーチンだったという事実です。
2008年、ロシアはジョージアに軍事介入し、ロシア・グルジア紛争(南オセチア紛争)が起きました。NATO首脳会議でジョージアとウクライナのNATO加盟のための「加盟行動計画(MPA: Membership Action Plan)」の採択は独仏の反対で却下されていたにもかかわらず、ロシアは軍事介入を強化し、ジョージア領である南オセチアとアブハジアを事実上支配下に置き、これらを「独立国家」として一方的に承認しました。

さらに2014年には、マイダン革命(注3)で親欧米的民主体制を確立したウクライナを侵攻してクリミア半島を併合し(注4)、同時にウクライナ東部のドンバス地域(ドネツクとルガンスク)で親ロシア派勢力を支える軍事介入を強行しました(注5)。
(注3)マイダン革命…2013年11月、ヤヌコーヴィチ大統領のEU協定署名中止に抗議し、市民が首都キエフのマイダン広場に集結。2014年2月の治安部隊との衝突で100人以上が死亡し、ヤヌコーヴィチは国外逃亡。親欧米政権が樹立された。ウクライナの親欧米路線への転換を象徴する出来事となった。
(注4)クリミア半島を併合…2014年2月末、マイダン革命後のウクライナ混乱に乗じて、ロシアは国籍章のない部隊をクリミア半島に展開。3月16日の住民投票を経てロシアへの編入を宣言した。国際社会は主権侵害として非難し、ウクライナと大多数の国は併合を認めていない。欧米はロシアに経済制裁を科した。
(注5)ドンバス地域…2014年3月、マイダン革命後にウクライナ東部ドネツク・ルハンシク両州で親ロシア派が「人民共和国」を宣言し、政府軍と戦闘開始。ロシアの支援が指摘された。ミンスク合意後も散発的戦闘が続き8年間で約14,000人が死亡。2022年2月、ロシアが全面侵攻を開始した。
つまり、冷戦後に友好化していたNATO・ロシア関係が険悪化したのは、NATOがロシアの勢力圏を侵食したからではありません。逆に、独立した主権国家として国際的に承認され、国連にも加盟しているジョージアとウクライナに、ロシアが軍事介入したことが原因なのです。
それでも西側のNATO諸国は、アメリカも含めて、ロシアを非難し、軽い経済制裁を科したものの、軍事的対抗措置は取らず自制しました。むしろロシアとの関係修復がNATO・ロシア理事会というNATO組織の中で試みられたほどです。この中途半端な対応が、プーチンに「この程度なら西側は本格的には反撃してこない」という誤った確信を与えてしまいました。だから、プーチンが「NATOの東方拡大に追い詰められて」侵攻したわけでは決してないのです。
プーチンの狙い―「非軍事化」要求の意味
プーチンの真の狙いがNATOの脅威への対応ではなかったことは、その後に明らかになった事実からも証明されています。