今般の高市解散総選挙の結果は、かねてから私が指摘してきた戦後日本の民主政治の病理を鮮明に例証しています。自民圧勝を喜ぶ人々も、嘆く人々も、誰もこの問題を直視していないようなので、ここで触れておきます。
なお、年明けからずっと「Coffee Break☕」というラベルを「冠」にして記事を配信してきましたが、休憩中の余談とはもはや言えない重いテーマの話が続いているので、今回から「冠」を主題に即したものに変更します。今後は文字通り「こぼれ話」的な余談にだけ「Coffee Break☕」のラベルを付けることにします。 ※今回、途中から有料になります。
目次
- なぜ、「愚者の民主政治」は「賢者の専制」に優るのか
- 「我ら愚者の民主主義」における政権交代の不可欠性
- 自民党延命し続けて、日本低迷し続ける――ポスト五五年体制の政治史
- 不気味な既視感
なぜ、「愚者の民主政治」は「賢者の専制」に優るのか
まず、私見の理論的前提として、「なぜ民主主義が必要なのか」という根本問題について一言します。
民主主義は「衆愚政治」に走ることが多く、ひどい政治制度だが、それでも「賢者」を標榜する独裁者の専制政治よりはましだ――これは民主主義の悪徳を直視しつつも、なお民主主義を擁護した人々が語ってきたことです。「民主主義は最悪の統治形態だ。ただし、これまで試されてきた他のすべての統治形態を除けばだが」という英国政治家ウィンストン・チャーチルの名言は、その最も著名な例です。
しかし、なぜそう言えるのか。その根本的理由は意外とあまり理解されていないようです。よく言われるのは、次の点です。専制政体には平和裏に権力者を交代させるルールがなく、権力承継が実力闘争になり、内乱のような危機が恒常化する。それを避けるために世襲制をとっても「跡目争い」は回避できない。選挙で為政者を選ぶ民主制が、権力闘争を暴力闘争に転化させるリスクが最も小さいという点で「最小悪」の政治体制だ。
この説明は当たっているようにも聞こえますが、十分説得的とは言えません。現存する民主主義で世界最古の体制である米国は、南北戦争という凄惨な内戦を経験しただけでなく、対外的に侵略や軍事介入を奔放に行ってきました。民主主義は内政上の安定性をもたらすということが一応は言えたとしても、国際的な権力闘争において暴力闘争のリスクを最小化するとは必ずしも言えません。
民主主義が衆愚政治に走るリスクがあっても専制よりましだと言える本当の理由は、民主主義を衆愚政治だと批判する自称エリートたちも含めて、人間はみな愚者だということです。「Xに任せておけば大丈夫」と言えるような不可謬の賢者Xなど存在しないからこそ、自分たちが犯した愚かな選択の失敗から学んで、自らの誤りを是正できる政治的意思決定システムとして、民主主義が必要なのです。
専制的政体においては、「愚民を支配すべき賢者」と自己をみなす為政者は独善化しやすいだけでなく、誤りを犯してもそれに対して責任を取る必要がないため、誤りを正す動機が民主的体制の下におけるほどには働かない。さらに専制的為政者はその取り巻きがイエスマンになりやすいため、不都合な真実が見えなくなることも、その独善化を促す要因になる。
民主主義の強みは、失政・悪政を生まないことにではなく、人々が政治家に失政・悪政に対する責任をとらせて、政治家自身をその誤りから学ばせると同時に、失政・悪政に走る政治家に権力を与えた自らの誤りから学び、それを正すのを可能にする点にあります。ここでは議会民主制について語りますが、自らの失敗から学ぶという点は直接民主制にも妥当します。

個人の自己決定権を、自己の愚行による失敗から学んで成長する「愚行権」として擁護する考え方があります。他者に命令されたからではなく、自分で決めて失敗したからこそ、自己批判・自己変革への動機が生まれるのです。民主主義は、個人の「愚行権」を、一つの政治社会を構成する人々の集団的自己統治に拡大して確保する政治的意思決定システムだと言ってもよいでしょう。
私はこのような民主制観を「批判的民主主義」という名で展開していますが、そのエッセンスを「我ら愚者の民主主義」という言葉でも表現しています。人民主権論を示す合衆国憲法の「我ら人民(We the People)」という言葉を修正したもので、主権者たる人民は神のごとき絶対的存在ではなく、人民もまた誤りを犯す存在であることを強調する意図があります。
「我ら愚者の民主主義」における政権交代の不可欠性
この観点に立つなら、民主主義にとって大切なのは、単に選挙で為政者(=政権を担う与党勢力)を選ぶことだけではありません。自分たちが選挙で政権を委託した与党勢力が失政・悪政をしたなら、次の選挙でその勢力を政権の座から追放し、その誤りを正す政策を掲げる代替的政治勢力に新たに政権を託すことです。同じ政党が党首の看板だけ変えて「万年与党」化し、野党は「万年野党」化するような「擬似政権交代」をもたらすだけの選挙を繰り返すのではなく、本物の政権交代を選挙により実現することが肝要です。
党首の看板を変えるだけの擬似政権交代では、与党は自らの失政・悪政の根を絶つような本当の自己改革へのインセンティヴをもちません。それをもたせるためには、与党を権力の座から追放すること、すなわち「悪しき為政者の首を切る」ことが必要なのです。失政・悪政をしても権力剥奪という本当の意味で首を切られることなく、「党首」の看板だけ変えれば権力を温存できるような与党政府は、自浄能力を失い腐敗し続けます。
英国の思想家・政治家のアクトン卿は「絶対的権力は絶対的に腐敗する」と言いましたが、これは専制に対する批判としてだけではなく、民主政治に対する警鐘としても妥当する命題です。民主制の下での絶対的権力とは、政権交代で首を切られることのない持続的権力のことです。持続的権力は持続的に腐敗します。
以上の理論的前提を踏まえて、戦後日本の民主政治の病理を、以下、論じます。